斎藤先生の風邪

 




土曜日の昼、駅前のカフェで千鶴からクリスマスや京都旅行についてざっくりとした話を聞いて、千は誰かと喜びを分かち合いたくてたまらなかった。
 ほぼ一年。
いらいらと進展を見守ってきた『若先生と千鶴ちゃん』カップル。つきあいだすまでがたいへんでつきあいだしてからもいろいろ問題があってやきもきしたものだが、これでとうとうゴールと言っていいのではないだろうか?ここまで仲が進展すれば、もうあとはどんな問題が起きても二人で話し合って解決していけばいいのだし、いわゆる『夫婦喧嘩は犬も食わない』状態だ。
千の心象風景としては「ゴオオオオオオォォォォォオオオオオオル!」と叫んでガッツポーズ、その後ハイタッチをして達成感を分かち合いたい。誰かいないか……と思い浮かべると浮かんでくるのは斎藤の友人である総司くらいだ。
ひっかきまわしているのか心配しているのかよくわからないスタンスで、しかし女性週刊誌的興味で斎藤と千鶴のカップルについてあれやこれやと好奇心丸出しだった。

まあ、でもさすがに男の人に『千鶴ちゃんの初体験祝い』とか……話せるわけないしね。

千はそう思い、今は自分がセレクトした下着が役に立って嬉しいと千鶴に言うにとどめた。
「役に立ったんでしょ?」
千がミートドリアを食べながらそう聞くと、千鶴はしばらくの沈黙ののちに赤くなって頷いた。その反応を見て千は不安になる。
「え?何かまずかった?ちょっと……気合入りすぎてるとかでひかれちゃったりした?」
女子から見るとってもかわいい下着だと思ったのだが、斎藤のようなタイプにはまずかったのだろうか。スペイン娼婦風とハリウッド女優風。木綿のハンカチーフ的な下着の方が斎藤の好みだったとか…千が自分のセレクトに責任を感じていると、千鶴が慌てて否定する。
「いえ、そんな!……よくわからなかったですけど、多分気に入ってくれたんだと思います」
彼女のつけている下着が気に入ると、男性は脱がせるものなのだということが勉強になったと千鶴はひそかに頷いた。
 あの時すぐに脱がされてしまったので不安になった千鶴は、後で斎藤に聞いたのだ。『あの下着……似会ってなかったですか?』と。
斎藤は真顔で『とてもいいと思う』と即答してくれた。それならなぜあんなにすぐ脱がせてしまったのかと千鶴は疑問に思ったのだが、要はそれがあの下着の役割なのだろう。前に千も言っていたが、『男の人に脱がせてもらうための下着』なのだ。
 自分が一つ大人の階段を昇ったことを実感して、千鶴はまた顔を赤らめる。そんな千鶴を見て、千は微笑みながら溜息をついた。
「よかったわ、若先生と千鶴ちゃんが順調で。もう他の女の影もないし、他の男とのコンパに行けとも言わないだろうし、大丈夫ね」
千の言葉に千鶴はふっと顔を曇らせた。
「何?何かまだ心配事でもあるの?」
「……前々から思ってたんですが、斎藤先生って完璧すぎて……。ほんとうに私なんかが傍に居ていいのかなって時々思うんです」
新手のノロケかと千は面食らったが、千鶴の話を聞くとどうやら違うようだ。
 京都旅行で少しの間だけだが日常を共にして千鶴が感じた違和感。
斎藤は自分のコートは自分でクローゼットにしまい、千鶴の分までしまってくれ、風呂の準備も食事についても朝の支度にしても全て完璧。千鶴が手を出す隙すらなかったそうなのだ。
「それは……それはあの年で一人暮らししてるんだからある程度の家事は一人でできるんじゃないの?っていうか心配ってよりそれは喜ぶところよ。いい年した男でなにもかも彼女や奥さんにやってもらう大きな子供みたいなのより全然いいじゃないの」
「そうなんですけど…つきあいだして最初のころは斎藤先生が作って下さったご飯も美味しいし一人住まいなのにお部屋も綺麗ですし、車の運転もできるしすごいなあって思ってたんですが、京都では更に完璧で…」
 千鶴が、すこし喉が渇いたかな…と言うタイミングで即座に部屋のポットと急須でお茶が出てくる。千鶴が脱いだ(というより斎藤が脱がせた)旅館の浴衣と丹前が、翌朝ピシーッと枕元にたたまれて置いてある。旅館のアメニティに何があるか、サービスの利用は何時までか、帰りの新幹線の切符の管理に、おみやげのせいで入らなくなってしまった千鶴の荷づめも完ぺきにやってくれたらしい。
「そりゃあ私は一人暮らしをしたこともないですし、家事も家族と一緒にやっているだけなんであそこまで完璧じゃないかもしれないんですが、そう言う問題じゃなくて…。手際と気配りがすごいんです、斎藤先生。私、なんだかおんぶにだっこで世話されてるだけで」
千鶴は思い悩んでしょんぼりしているようだが、千には正直よくわからない。楽でいいではないか。
しかしそんな事を言えるような雰囲気ではなく、千は「うーん」と腕を組んで考え込んでしまったのだった。
                        
「あーありそうだね、それ。あの二人どっちも長男長女気質じゃない?」
火曜日の昼にぶらりと『斎藤こども病院』に遊びに来た総司に、千が千鶴の最近の悩みについて話すと総司はウンウンとうなずきながら同意した。
斎藤は銀行と郵便局に用事ああるそうで、今病院には総司と千だけだ。
「若先生は昔からあんなですか?」
千がお茶を淹れながらそう聞くと、総司はソファに座ってうなずいた。
「そうだね、僕達がちらかしたのを片付けて注意してたね、いつも」
「千鶴ちゃんも、実際長女だからなあ。どっちかというとお世話したい方なんでしょうかね」
「甘えるのがヘタそうではあるよね」
実際のカップルでも、長女の彼女と末っ子の彼氏や、長男の彼氏と次女の彼女等の組み合わせだとうまく行き、末っ子同志だとお互いにゆずらず上手いかない場合が多いと聞く。長男と長女のカップルだとお互いに甘えて欲しいタイプでなおかつ自分からは甘えられずうまく行かなくなってしまうとか……
 千は、向かい側で出されたお茶を「ありがとう。おいしいよ」と言いながら遠慮なく飲んでいる総司を見ながら、斎藤に爪の垢でも煎じて飲ませてあげて欲しいと思った。もし斎藤がここにいたら、千がお茶を淹れているところに来て『俺がやろう』と言うのではないかと容易に想像できる。
年齢のアドバンテージや経験的な物で、今のところは斎藤が全て千鶴の世話をしてしまっているのだろう。斎藤はそれで満足だろうが、千鶴は千鶴で斎藤に何かしてあげたいと思っている。

若先生、もうちょっと隙があればいいんだけど

千がそう思っていると総司がにっこり微笑んで言った。
「まあでも大丈夫だよ。好きな女の子に甘えない男はまずいないから。何かきっかけがあったらいくら斎藤君とはいえちゃんと甘えると思うよ」
男の深層心理などわからない千は、総司の言葉にそういうものかと頷くしかなかった。

 土曜日、いつのようにアルバイトにやってきた千鶴は斎藤ではなく斎藤の父親―院長先生―が病院にいるのに驚いた。
「斎藤先生……あの、若先生どうしたんでしょうか?」
千鶴がそう聞くと、千が少し驚いたように聞き返す。
「あら?千鶴ちゃん聞いてないの?若先生、風邪ひいたんですって。さっき電話があったのよ」
「わしの方には夕べ電話があってな。相当熱が高くて多分明日は行けないから申し訳ないが代わりに行ってくれないかとな」
院長先生が白衣を着ながらそう言う。
「そうですか……」
千鶴はアルバイトの準備を始めたが、しかしだんだん気持ちが落ち込んでいくのを感じていた。
 熱で体調が悪いときにあちらこちらに電話をする気になれないのはわからないでもないが、一人でたいへんなのではないだろうか。風邪の時に食べるようなあっさりした食事や飲み物、汗をかいたものの着替えや洗濯。薬もどうしているのだろう。
社会人として最低限必要な連絡は、ちゃんと代わりの人が用意できるようにあらかじめしているのだから誰からもどこからも文句を言われる筋合いはないのだが。
なんだか蚊帳の外で放っておかれているようで、彼女としては寂しい。
 千鶴は病院でのアルバイトが終わると、斎藤へと電話をかけた。
「大丈夫ですか?」
『ああ……ゴホッ!いや、喉も痛いし熱も急激にあがっているからウィルス性の喉風邪だろう。症状を緩和する市販の薬を飲んで治るのを待つしかないな。熱も下がってきているし大丈夫だ』
電話ごしの斎藤の声は風邪のせいでひどい状態だ。
「あの、お見まい……というか看病に行きたいんですがダメでしょうか?」
『いや別にダメではないが……しかし特には……』
「何か買っていきます!ポカリスエットとか冷えピタとか。ご飯とかどうしてるんですか?おかゆもつくりますし……」
『食事はあまり食べる気がしなくて食べていないな。水とクスリだけで……』
「今から行きます!あの、たいへんそうなら買って来たものをお渡しするだけで帰りますので!」
千鶴の勢いにおされたのか、特に看病も見舞いも必要だとは思っていなかったらしい斎藤も、最後には『では待っている』と言ってくれた。
 千鶴は途中のスーパーでスポーツ飲料やゼリー、冷えピタに簡単な食糧を買い込んで、何度か行ったことのある斎藤のマンションへと向かった。
インターホンを鳴らすとしばらくして中から扉が開く。
「ああ、来てくれたのか、ありがとう」
「斎藤先生……!」
一目で熱があるとわかる斎藤の様子に千鶴は驚いた。弟によくやるように思わず手をのばして斎藤のおでこにあててしまう。
「熱、高いじゃないですか!」
斎藤の瞳は熱でうるみトロンとし、頬も紅潮して動きもだるそうだ。Tシャツにスェットといういつもの隙のない恰好からは想像できないラフな感じに、千鶴の胸はこんな時にもかかわらずきゅんとなる。
「早く横になってください。あ、その前にTシャツを着替えてから。ご飯は食べてないんですよね?おかゆなら食べられますか?」
寝室へと追い立てられながら矢継ぎ早に聞かれて、斎藤はぼんやりとうなずいた。
「おかゆ、梅干し味か、卵か、塩だけかどれがいいですか?」
「……塩で……」
「わかりました。すぐ作りますので斎藤先生は着替えて横になっててくださいね。あ、これポカリスェットです。汗をかいてるでしょうから飲んでください。キッチン借りますね」
最後は寝室の扉から頭だけを出してそう言って、千鶴はパタパタと台所へ向かって行った。
斎藤はぼんやりとベッドに腰掛け、千鶴に指示された通りTシャツをぬぎ上半身裸になる。先程まで気づいていなかったがTシャツはしっとりと湿っており、汗をかいていたようだ。新しい乾いたTシャツとスェットに着替えると、さっぱりして幾分気分が良くなったような気がする。斎藤は脱いだ服を持ってキッチンの横にある洗面所まで行って洗濯機に入れた。
「斎藤先生!」
千鶴の責めるような言葉に、斎藤は汚れ物を洗濯機にいれながらキョトンとする。
「なんだ?」
「そんな事私がしますから早く横になってください」
腕の中の洗濯物を奪い取られ「汗臭いから自分でやる」と言おうとしたのに、「これぐらい平気です!」と逆に千鶴に怒られ、斎藤はまた寝室へと追いやられた。
 しばらくするとノックの音と共に千鶴がおかゆができたと呼びに来た。
行ってみるとキッチンテーブルには一人用の土鍋におかゆが湯気をたてている。
「食べられそうだったら食べてくださいね。他に何か食べたいものありますか?」
椅子に座っておかゆを前にすると、それまでは全く食欲がなかったはずなのになぜかとても腹がすいていることに斎藤は気が付いた。一さじすくって口に入れる。
「……うまい」
塩味がちょうどよく、熱のせいで寒気のあった体の芯が温まる。思わず夢中で食べてしまい、おかゆはあっという間に空になった。ふとキッチンの方を見ると、熱を出してから片付けていなかったシンク周りも綺麗になっている。
「……いろいろありがとう。すまなかったな」
クスリの用意をしていた千鶴は、斎藤を見て微笑む。
「医学的な知識はないですけど、弟がよく風邪をひくので看病は慣れてるんです。食べたら薬を飲んであったかくしてしばらく眠ってくださいね」
そう言って薬を水を斎藤の横に置く千鶴は、なんだかとても……
「楽しそうだな」
斎藤が思わずそう言うと、千鶴は悪戯っぽく微笑んだ。
「……正直な所、とっても楽しいです」
「……看病が楽しいのか?」
クスリを飲みながら斎藤がそう聞くと、千鶴は首をかしげた。
「看病というより……斎藤先生にあれこれ言えるのが楽しいです」
千鶴の発言に斎藤は目を瞬いた。どういう意味だ?
「斎藤先生はなんでもわかっててなんでもできて……私はいっつも迷惑ばっかりかけてて申し訳ないなって思ってたんです。でもこういう時は私でも役に立てますし、それに斎藤先生が散らかした後を片付けたり『ちゃんとご飯食べてください』って言ったりするのが楽しんです」
「……わかったような…いややっぱりわからんな…」
いつも斎藤がえらそうだったということだろうか。斎藤が首をひねりながら、食べ終わった食器を片づけようと立ち上がると、千鶴が止めた。
「あ、だめです。そういうところです」
「そういうところとは?」
千鶴は斎藤が持とうとしていた食器をさっととりあげて言った。
「一人で何でもできるのはとってもいい事だと思うんですが、私の場所も残しておいてくださいって事です」
斎藤がまだ『よくわからない』という顔をして立っているので、千鶴は斎藤を寝室へと促しながら続けた。
「風邪で動くのがつらいときくらいは私に甘えて欲しいんです。看病ならある程度できますし、買ってきてほしいものがあるのなら買ってきますし」
「……なるほど……」
人に頼るということは、これまで斎藤の生活習慣上確かにあまりないことだった。どちらかというと頼られる方で、斎藤自身もそれが特にいやではなくて。特に好きな女性から頼られたら斎藤としてはとても嬉しい。ということは逆も言えるわけで千鶴も斎藤に頼られたら嬉しいのだろう。
斎藤はベッドに入りながら、千鶴を見上げた。
「そうか、お前に頼るべきだったな」
布団をかけながら千鶴が嬉しそうに頷いた。
「頼ってください。何か欲しいものとかして欲しいことはありますか?」
欲しいものか……斎藤は考えた。
着替えもしたしスポーツ飲料も買ってきてもらった。おかゆはうまかったし薬も飲んだ。もう後特には……いや、欲しいものと言うか希望はあるか。しかしこれは言っていいものかどうか。
 斎藤が何やら悩んでいる様子なのに気がついて、千鶴は「なんでしょうか?」と首をかしげる。
「いや、その…風邪をひいて熱があると、なんというか気弱になると言うか寂しくなる事はないか?」
その気持ちはわかるので千鶴は頷く。斎藤は続けた。
「つまり……これは頼るというよりは甘えで、さらに言うとわがままだと自分でもわかっているので、無理な様なら断ってくれても構わないのだがその、もしできたら……。いや、やっぱり悪いな。千鶴のご家族の方の問題もあるだろうし」
「なんですか?私にできることなら……」
無邪気に首をかしげている千鶴を見て、自分の部屋の白い殺風景な壁を見て、しばらく迷った後斎藤は思い切って言うことにした。
「その……風邪でこんな状態なのでなんのもてなしもできず更に看病してもらう事にもなってしまうが…」
斎藤はそこでまた言葉を切る。そして言いにくそうにぼそぼそと言った。
「寂しいので帰らないでここにいてくれると……」
嬉しい。という最後の言葉は小さすぎて聞こえなかった。
しかし斎藤の台詞は前半部分だけで、千鶴の胸を打ち抜くには充分な威力を持っていた。
 撃ち抜かれた千鶴は、さっそく自宅に電話をかけ『大学の一人暮らしの女友達の家に泊まる』と家族に伝えたのだった。




2013年5月12日
掲載誌:Dr.斎藤



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